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| 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 2006年2月発行ニュース(会報第119号)より、一部修正加筆 2006年1月例会(15日)での内沢達の発言 問題であって問題じゃない 内沢 達 (前略)つまり親の会で言われることもわかるけど、親として何かしなくていいのか、という気持ちが他方であるわけですよね。 「AであってAでない」(と板書・・・) 僕が書いたなかで一番長いものですが「ことわざ・格言と登校拒否・ひきこもり」というのがあります。 「登校拒否も引きこもりも明るい話」と言った板倉聖宣さんが作った「ことわざ・格言」を使って、問題の見方、対処の仕方を深めています。 「ことわざ・格言」を意識的に使って考えていくと、以前だと否定的にしか受けとめられなかったことも、違った明るい肯定的な見方ができるようになっていくんですね。 いつも「AはAに決まっている」わけではありません。 よくよく考えてみると「AなのにAじゃない」ということも少なくありません。 このことをMさんの三男さんの場合を例にして言いますと、お母さんは三男さんの状態を否定的に見ていますが、果たしてそうなのかということにもなります。 しゃべらないし、食べないし、すごく辛そうだし、かわいそうだという見方をお母さんはしています。 でも、そうではない見方が、辛そうで辛くない、かわいそうでかわいそうではないという見方ができるんです。 「AであってAでない」のです。 しゃべらない、食べないということは、普通だと大変辛そうに思われますが、じつは三男さんの今、現在はその状態が一番自分にあっているからそうしているんです。 もちろん辛さも間違いなくあるでしょうが、それはお母さんが心配している「食べない」「しゃべらない」というところにはありません。 「食べる・食べない」「しゃべる・しゃべらない」を比べると、今は「食べない」「しゃべらない」ほうがはるかに辛くなく、楽だから続けることができているんです。 三男さんにはいろいろないきさつがあって、いまは食べなく、口をきかなくなっています。 そのこと自体は心配しなければいけないことではありません。 問題のように見えることも問題じゃないんですね。 むしろ、お母さんが「大丈夫だろうか、大丈夫だろうか」と心配していると、息子さんは今の自分を肯定できなくなってしまいます。 問題といえば、「食べない」ことではなく、そちらのほうが問題です。 Yさんの娘さんの場合も同じですね。 娘さん・A子さんの拒食も心配ありません。 以前のBさんの娘さんの例からも心配ないと言えるんです。 人間は食べたくない、食べられないときがあるわけです。だけどお母さんが心配でしようがないというふうに見ていたら、どうでしょうか。 昨年11月の例会にいっしょに参加されて、娘さんは「参加してとてもよかった」と言ってくれたそうです。うれしいですね。 でも、娘さんは非常に気をつかっています。 帰りの車の中でA子さんは、お母さん(Yさん)に「私のことで心配かけてごめんね」と言ったそうです。 お母さんは「いいのよ。あなたのことで私がいろいろとやるのは当たり前じゃないの。」と答えられたそうです。 普通ですと、このお母さん(Yさん)の答えで十分ということになるんでしょうが、親の会16年の経験からは、違った評価になります。 是非、視点を変えていただきたいんですね。 僕は、「親だからわが子のために一所懸命になるのは当然」という考え方について、とても疑問に思っています。 どうしてかと言うと、その考え方では、なんとおっしゃろうとも、相も変わらず問題を子どもの、息子や娘の、つまりわが子の問題ととらえているからです。 それでは、親が一所懸命になればなるほど、子どもは辛くなります。 親の会には、まず親が自分自身のために来て欲しいと思います。 もちろん結果として子どものためにもなっていくのですが、鹿児島の親の会は「子どものため」という考え方で会をやってきていません。 初めは無理からぬことなのですが、その点を勘違いされたままでは、子どもは「お母さん、心配かけてごめんね」と言い続けることになっちゃうんですね。 これは子どもを応援しているようでいて、じつはその反対で、子どもの辛さを助長しています。 僕はなにもここで、「子どもの問題ではなくて大人の問題だ」とか、「社会の問題だ」などと言おうとしているのではありません。 そもそも、「普通問題だと思われていることは問題なんかじゃありませんよ」ということを言いたいわけです。 「AであってAでない」んです。その見方がないとわが子を辛くさせるだけでなく、まず絶対にと言ってもいいほどにうまくいきませんから、次には自分を「なんてダメな親なんだ」と責めはじめ、自身までも辛く苦しくさせちゃうんです。 Mさんの三男さんも、Yさんの娘・A子さんも、いまは拒食という形で辛さをあらわしています。 それを他に仕方がないからではなく、自然なこととして肯定する、認めることがすべての始まりです。 ある子は拒食・過食、別の子は家庭内暴力、はたまた深夜徘徊とか、閉じこもりとか、辛さのあらわし方が違っているだけです。 大変なことや辛いことが続くと普通「そんなんで大丈夫?」と心配されるような状態を子どもは呈するようになります。 「大変なときにちょっと異常のようになる」というのは、その子がなにもおかしくなく、正常であることの証明だと僕はこの会で何度も言ってきました。 さきほどBさんは、そのときは大変だったけれど、そのときがあったからこそ、今はすごく自分を大切にできるようになったと話されました。 だからそういう点からも、心配しなければいけないような問題ではないんです。 逆に「でも心配・・・」と考えてしまうほうが問題なんです。 親はわが子のことについては特別なことはせずに、普通にしていたらいいんです。 「子どものために」ではなく、自分自身のために、子どもの状態に関係なく、毎日を楽しまれたらいいんです。 そうした親を見て、子どもも「自分も今の自分のままでいいんだ」と自己肯定のきっかけをつかんでいくんです。 ひとつ僕からの質問ですが、A子さんが今食べられるものは何ですか? (A子さん:スイカとキウイ、りんごの汁です) 今はそれしか口にできないんですね。 そのA子さんの今を異常視せずに認め、肯定する。ただしです。「肯定する」ということは特別扱いをしないということも含んでいます。 今店に行けばりんごやキウィはいっぱいあるでしょうが、スイカはどうでしょう? お母さんが普通に買い物に行ってスイカがあったならいいんですよ。 そうじゃなくて、それしか口にできないのだからとお母さんがいろいろな店を探し回るようだったら、それはおかしいんです。 子どもを大事にしているようでいて、じつはそうではないんです。 それは子どもの辛さに手を貸していることになります。 A子さんは以前にはプリンや乳製品しか食べられない時期があったそうです。 今はそれが果物のほうに変わってきています。 時期によって変わってくるんですね。 主人公は人間のほうで、食べ物ではありません。 食べ物や嗜好の変化に振り回されることは、子どもを尊重したことになっていません。 親が「この子はいまこれしか食べられないから」といって、その食品の確保に一所懸命になると、子どものほうの内面は「迷惑をかけてごめん」ということになってしまって、今の自分の状態を肯定していくきっかけをつかむことができないんです。 Mさんの三男さんの場合も同じです。 本人が点滴だけでも受けたいと言うのならいいけれど、全然望んでいない。 嫌がっているのははっきりしているんだから、食べないことを認めてあげて、冷蔵庫に食べ物をそれなりに準備しておけば十分じゃないんですか。 他に食べたいものがあればスーパーやコンビになりに本人が買いに行けばいいだけの話です。 ここでも親の会の三原則が大事なんですね。 食べない、言葉を交わさない息子さんを異常視しない、家庭内暴力のときだけでなくて、子どもの言いなりにならない。 お母さんは息子さんがこれとこれしか食べられないと思い込んでそれだけを用意しているとすると、それは言いなりになっていることでもあるんです。 腫れ物にでもさわるかのように子どもに接しない。 子どもをガラス細工のように扱わないということが大切ですね。 |
Last updated: 2006.8.19
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